十年近く前のことだと思う。ひとりで岩手、青森、秋田と周り、旅の最後に山形県、月山の麓にある注蓮寺に立ち寄った。森敦の小説の舞台となった寺である。本堂に安置された鉄門海上人の即身仏と、境内から仰ぎ見た月山が記憶に残った。山登りを覚えるまえのことだ。そのときは月山に登ることなど考えもしなかった。
 雪に閉ざされたこの寺で一冬を過ごした経験をもとに森敦は『月山』を書いた。寒さと、寺の中にまで吹き込んでくる粉雪に耐えかねて、森は古くなった祈祷簿で和紙の蚊帳をつくる。

「天井から蚊帳へと小さな穴をつくって引き入れた電球をつける。ただそれだけでも、中は和紙の柔和な照りかえしで明るさが満ち、電球のあたたかさとわたし自身のぬくもりで、寒さというほどの寒さもありません。それはもう曠野の中の小屋などという感じではなく、なにか自分で紡いだ繭の中にでもいるようで、こうして時を待つうちには、わたしもおのずと変化して、どこかへ飛び立つときが来るような気もするのです。」ー森敦『月山』 

 この作品自体が、外界から閉ざされながら繭の中で紡がれた夢のような物語にも見える。宴で酔った村の女と和紙の蚊帳で過ごす場面は、仄かな色気を匂わす。幽明な世界を描きながらも『月山』は現代の小説である。夢とうつつが絶妙に交わっているあたりがこの小説の魅力に思える。『月山』を読み返してみたり、同じく山形の庄内平野を舞台にした長編『われ逝くもののごとく』と読み進むにつれて、またこの土地を訪れてみたいと、懐かしさとともに思っていた。 

 平成二十八年。
ニ月、蔵王に登った。六月、鳥海山に登った。七月中旬、東京の梅雨は明けたが東北はまだだった。『奥の細道』を読みながら庄内への旅立ちの時期を待った。芭蕉と曽良が歩いた道のりを辿り、出羽三山を周ることにした。鳥海山に登った後に見た夢の中で、わたしはもうひとりの自分とも呼ぶべき女に山頂で出会った。ふとその夢を思い出し、今回はその女と同行二人なのだと自分に言い聞かせた。今風に言えば、ひとり『君の名は』ごっこだ。三山のうち羽黒山は現在を、月山は過去、湯殿山は未来を表す。三山詣は生きながら死し、再び生まれ変わることを意味するそうだ。だとすると、これは時空を超えた山旅とも言える。
 七月十六日、羽黒神社の随身門から山に入る。
杉の木に囲まれた石畳の参道をしばらく歩くと国宝の五重塔が見えた。周りの杉のほうが高いせいか、建造物というより杉林の一部のように思える。 さらに参道を行くと長い石段があった。山登りは好きだが階段は嫌いだ。石段の脇にエスカレーターがあったのなら、そちらを選んでるだろう。三山詣の御利益がたとえ薄まるにしても、迷わずそうするだろう。
 少し登っては立ち止まり、その度に行く先を見上げた。が、終わりが見えない。湿度が高いので体力も消耗する。石段の途中で、揺れる「氷」の旗が見えた。息を切らせながら、その茶屋で氷を注文する。 いちごや抹茶なんていう洒落た選択肢はなく、みぞれ味だけだ。その潔さがいい。茶屋前のベンチに腰掛け、その無色透明の氷塊の、シロップが溜まっているであろう下部にスプーンを入れ、ひとかけすくって口に含む。うまい。シンプルだが身体に染み入る甘さだ。ときおり吹く風と氷の冷たさが相まって、汗が一気に引くのを感じた。小屋の前は視界が開けていて、視線の先には青々とした庄内平野が広がっていた。
 石段を登りきると三神合祭殿に着いた。せっかく三山を巡るのだからと思い、まずは羽黒山の御朱印を戴く。 巡礼登山の気分が高まる。昼飯を食い、月山登山口行きの定期バスを待っていると、白装束を着たおばさんたちが観光バスから続々と降りてきた。長く急な石段をわざわざ登らなくとも、ここまではバスで上がって来れたのだ。
 高原ラインを走るバスに揺られていると、 いつの間にか眠っていた。気がつくと、窓ガラスは細かい水滴で覆われ、辺りは霧に包まれていた。 ひと月前の鳥海山と同じように、小雨降る中の登山となった。風は強くないので、レインウェアと傘を併用してのんびりと登る。晴れていたらどこまで見渡せたのだろう。鳥海山に登った時のように、日本海まで見えたかもしれない。しかしながら、このような天候だからこそ見えてくる風景もある。しとしと降る雨を吸い込むような仏生池の水面や、池の周りに群生するハクサンフウロは夢で見た光景のように、いつか見た幻影のように霧の中から立ち現れる。それらの風景を撮りながら、月山の頂上へ向かいながら、わたしは過去へと遡上していたのかもしれない。白装束の二人がわたしを追い越していった。その後ろ姿を眺めながら、三百年以上前の芭蕉と曾良の山旅を想った。
 頂上の神社で参拝料を払い、お祓いを受けると、人型の紙を渡された。その紙に自分の息を吹きかけ、身体を拭き、水が張られた場所にその紙を浮かべ禊をする。参拝をして本宮を一周し、月山神社の御朱印を戴く。雨に濡れぬようザックの中に入れて、宿泊する山小屋へと向かった。
 小屋で受付をすませると、二階の八畳間へ案内された。四時過ぎだというのに部屋には誰も居ない。こりゃ貸切だと思い、布団を敷いて大の字に寝そべっていると、 五人組のグループが入ってきた。「お邪魔します」と言われたが、多勢に無勢、「いえいえ、かえってお邪魔してます」と答えて、一階へと降りた。山に登るときはテント泊ばかりだから、山小屋での過ごし方や居場所がわからない。小屋の中をうろちょろして本棚を見つけると、まずはそこの前に陣取り、その小屋の蔵書を漁る。それにも飽きると思い出ノートの類を探し出し、自分と同じような孤独な登山者の書き込みを見つけ、おのれに酔った彼らの詩的な言葉に失笑し、わたしも負けじと叙情たっぷりのポエジーをそのノートにぶちまける。 

 鳥海に 会ひし君の名 忘るゆえこしかたの山 登りて来たり      星法師
( 鳥海山で出会った君の名を思い出すために
 過去の山である月山に登ってきたよ)

 晩飯の時に飲んだ小屋自家製の葡萄酒が美味しかった。食後、小屋の外に出て煙草を吸っていると、雲の切れ間に月が現れ、山頂のお社が照らされ闇の中に浮かび上がった。 その後も月は、漆黒の空に月輪を描きながら浮遊していた。われ逝くもののごとく登る、昼夜を舎かず… 月明かりを浴びながら、心の中でそう呟いた。月山で一度死し、湯殿で再び生まれ変わる。 三山を歩き登ってゆく過程の中で、そのような信仰や言い伝えが生まれてくるのは、ごく自然な事のように感じられた。
 翌日は朝から雨だった。七時頃小屋を出て、雪渓を渡りながら湯殿山のほうへ下山した。途中、雨があがった。振り返ると、月山の山容を初めて目にすることが出来た。臥牛山と呼ばれる理由が解った。なるほど、牛の背のようにゆったりとした稜線だ。草鞋履きで登ってくる修験者たちと挨拶を交わしながら、濡れた岩場を慎重に降りてゆくと、湯殿山の御神体の側に出た。この御神体については、人に語ってはならないという掟に従って、ここでは筆を留めておく。ひとつ言えることは、三山を巡り、最後にこの御神体に触れたことにより、わたしは細胞に潤いを与えられた気がした。羽黒山、月山、湯殿山と登ることは、三山が表す現在、過去、未来の時間軸を擬似的に巡る旅でもあった。擬似ではあるが、これは体感であり、間違いなく経験である。湯殿の御神体の熱を肌に感じながら、もうひとりの自分のことを意識した。それは、山を走る女の姿だった。

 湯殿山から鶴岡市内までのバスに乗り、大網という集落で途中下車した。以前バイクで立ち寄った注蓮寺を再訪したくなったのだ。山下清に出会いそうな田園風景の中、バス停から三十分程歩くと屋根の大きな寺が見えて来た。階段を上がり寺の境内を見渡すと、森敦文庫の建物が無くなって、駐車場になっていた。 老朽化により数年前に取り壊されたのだという。” すべての吹きの寄するところ これ月山なり ” と刻まれた文学碑だけは、そのまま残されていた。
 蝉の声を聞きながら来た道を戻り、停留所で寝転がりバスを待った。雨はすっかり上がって、夏らしい青空が広がっていた。近くの校庭から子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。そのままうとうと寝てしまい、やってきたバスのクラクションで目を覚ました。

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